今日は隊長が昇格試験に落とされた話をするよ。
化学メーカーで昇格試験にエントリーしてから、
落ちるまでの話をしようと思います。
昇格試験のスケジュール
昇格試験のスケジュールはこんな感じになっていました。
- 7月末エントリー〆切
- 10月頃筆記試験(NMAT)
- 翌年4月中旬業務成果発表会資料(←昇格試験のプレゼン資料)提出
- 5月GW開け業務成果発表会(昇格試験)
- 6月上旬昇格者発表
昇格試験のエントリー
昇格試験へのエントリーは、
エントリーシートを書いて、上長の推薦状を添えて人事に出せば済みます。
(この時点でハジかれて受けさせてもらえないこともあります。)
「直近の実績」や「今取り組んでいるテーマ」
などを記入します。
それに上司の推薦書類と合わせて、提出すればエントリー完了です。
エントリーシートは、
上司、営業所長などの指導が何度も入り、
合計30時間程度かかりました。
まさか1年後この労力が水の泡になるとは・・・
昇格試験の概要
人事部からの告知によると、合否は下記により決まることになっていました。
- 過去の実績と評定
- TOEICの点数(590以上で加点)
- 筆記試験の結果
- 業務成果発表会の内容
業務成果発表会では
エントリーシートで定めた目標に対して、
この一年間どのように考え、どう取り組んだかを発表することになっていました
発表は
・発表10分
・質疑応答10分
で、審査員(役員)が点数をつけます。
冷静にかんがえて、
一番謎だと思うのは、
1〜4のウエイトが公表されていない点です。
過去の評定、TOEIC(785)、NMATは完璧で、
プレゼンも上司から「全く問題なし」と言われていたので、
1mmも落ちるなんて思っていませんでした。
ましてや、19人中僕1人だけ落ちることになるなんて・・・。
昇格試験までの通常業務(ハードに取り組む)
まりも隊長は日頃から業務に真剣に取り組んでいましたが
特に昇格試験の前年は、120%くらいコミットメントしていました。
なんだかんだいっても、
結果出す人≒優秀
みたいな価値観が僕に根底にあったからです。
特にこの1年間に関しては昇格試験で1番になってやろうと思い、
必死で業務に取り組みました。
その結果、担当していた西日本地区での売上を170%伸長させました。
筆記試験(高得点を叩き出す)
10月の筆記試験がありました。
NMATというリクルートマネジメントソリューションズが出している試験でした。
僕は試験対策は徹底的にするタイプで、
本屋で問題集を買ってきて徹底的に解きました。
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おかげでかなりの高得点が取れました。
業務成果発表会プレゼン(フツーにこなす)
いよいよ昇格試験です。
19人の候補者が3グループに分けられて、3つの部屋で業務成果発表会が行われました。
それぞれの部屋に審査員として5人の役員がいて、
プレゼンを聞いて質疑応答をして、最後に点数をつけるというものでした。
プレゼンはスムースに進み、
1つくらい答えられないのがあったけど、まぁフツーでしょって感じの終わり方でした。
非承認の通知
5月上旬に業務成果発表会があり、6月上旬に昇格者が決定されます。
受かった人は上長から携帯にすぐ電話が入ったりしているのですが、
僕には連絡がなかったので嫌な予感がしていました。
ただ落ちる要素がなかったので、まぁ大丈夫だろうと思っていました。
上長に「ちょっと来い」と呼ばれ、
喫茶店に行こうと言われたので、
「ヤバい」と思いました。
何も言われず、上長から人事部が発行した非承認の紙を渡されました。
何も考えることができず、頭の中がまっしろになりました。
その日の午後は予定はなかったのですが、
ホワイトボードにテキトーに予定を入れて、
大阪の梅田周辺を徘徊していました。
再エントリー拒否→在籍企業でのキャリアを捨てる
昇格試験が受かったら(もちろん受かる気満々)、
- 海外駐在案件への社内公募
- MBA留学
- 転職
などを視野に入れて動いていきたいなぁ・・・と思っていました。
しかし、
まず落ちたことにより予定が狂い、
そもそも何で落ちたのかも分からず、
今の国内の建築営業をあと1年やり続けるのも飽き飽きで、
とにかく八方塞がりの状態でした。
ただ一つ直感的に分かっていたのは、
この会社での未来には情熱は持てないし、
受けても受かるかどうかも分からない昇格試験に、
もう一度時間と労力を投下するのだけは違う。
ということでした。
そこで散々考えた挙げ句、昇格試験をもう受けないことにしました。
(やっぱり色々納得できなかった。)
こんな行動を取るのは当時の前職では前代未聞でした。
しかし、今だからこそ言えますが、
この決断をした瞬間が、
「自分の人生の主導権を取り戻した瞬間」
でした。
2015年にこの決断をしたからこそ、
株式会社の社長をやっている私が今ここにいます。
最後まで読んでくれてありがとうございました。